昭和五十七年四月二十七日 朝の御理解
御理解第十九節
金光大神は形がのうなったら、来てくれと言うところへ行ってやる。
今日様はご生前から、例えばこういう御教えを皆に下さってありますということは、御自身が天地金乃神と同根。この方が祈るところ、天地金乃神と一心なりというような信心を身を持って実験され、それを実証しておられたから、こう言うことが云えられたと思うんですね。
世間一般によく、自分がある苦労をしておるから、自分が死んだらま、皆に祈りを聞いてやるというて、亡くなる人がありますですね、もうその自分が・・・何か福岡には、あのう、縁切り地蔵さんち云うのがあって、やはり、夫婦仲が悪くてもその事で大変、別れようにも別れられない苦労したから、もうそういう人がもしおったら、ね、自分が死んだ後には、その人、そういう苦労がないように、いわゆる縁切りがスムーズに出来るようなおかげをやる、といったような事をまあ、云うて死んだと云うわけなんですよね。そんなのがありますよね。いくらでもね。
自分が死んだ先にそうした働きが出来るとも確信があるわけでもないのに、そんなことを云うて・・・それとは違うんですよね。教祖金光大神が自分が形がのうなったら、来てくれと云うところに行ってやると。いわゆる御自身の金光大神と云う御神格というものが、どういうものかとも、天地と同根でありね、天地金乃神ともう、一心だと云う。
まあ合楽で云われる天地人一如の世界に自分が住んでおるなあと云うことを実感しなければね、こんな事は云えないと、私ね、もしそれをそういうものがなくて云うと、云うならばそれは大きな、実は間違いだと思うですね。自分が金で苦労しとるからね、自分が死んだら自分を拝めば金には苦労させんと云ったような事になってくるね。自分がこの世で確信でけるから、いわゆる、眼に見えない世界。
今日は私は御心眼に、”洞窟のようなまっ暗い中から外を眺めておる、ですからこちらは真っ暗で分からんのだろうけれども、外の方は明るく見えておると云うような。だから明るい方から見ても、洞窟の中は何があるやらわからないですね。暗い方から見ると明るい方は見える”というそんなお知らせを頂いたんですけれどもま、今日の御理解とつながる、つながらないか分からないけれどもね結局自分がこの世で云うならば「この世は苦の世だ、苦の世界だ」といわれておるけれども、自分自身の心の助かりがね、云うならばこの世で有り難いもったいないの心の世界を開かしてもろうて、初めてその自分の心を又、あの世でもね、そういう働きが出来るんだと云うことが見えてくる、分かってくるというような意味の事じゃないかと思うです。
この世はまっ暗い洞窟の中は、今云うてこの世でありね、苦労の世界出歩けれども、その苦労の世界を苦労の世界にせずに、自分の信心一つによって光、輝く世界一切が有り難いと分からせて頂く世界ね。
そこにすんで初めてなら、自分が形がのうなったら来てくれというところに行ってやるといったような断言的な事も云えるんだし、又事実ね、私共が北京、北支ね、北京におりましたときなどは、もうそれこそあちらから金光様を念じ、私も場合はもう、そのいろいろなお願い事やら、電報を打ちに云ったら、もうおかげになりましたですね。もう郵便局に行って、電報を打ったら、もうまあだ教会に届いとらんと思うけれども、おかげを感じ、でした。
ですから遠いも近いも云うならば、そのないわけですね、金光大神を唱えるところに、そこに、もう神様の働きが頂けれるというまあ、私共は、そういう実験というですか、おかげを頂いて参っておりますから、ですからまあ、合楽で云われるね、世界万国津々浦々にね、御道の信心を合楽理念による助かりを、といったような祈りをね、そこが信じれなければ、そこが分からなければね、私は世界万国津々浦々の事をこう、ま、願わせて頂くですけれども。自分の国の名を知っておる限りの国の名をまあ、連唱させてもらうわけですけどね。
私はあの、ニューギニアというオーストラリアのまあ一つ向こうに小さな島がありますよね、の事はあのオーストラリアの、あそこまでしか私の祈りの中にはなかったんですけれども、ね、最近テレビを見せて頂きよったら、あそこの事がいろいろこう場面に映って、ははあ、私はここの事は願ってなかったと思うて、その日から朝、お願いをする事に致しましたけれどもね、その願いが成就するとか成就しないとかじゃなくて、も、そのどこにおってもどこからでも金光大神を唱えればおかげになる。
例えば、南米、ブラジルあたりでも、そうですね、今この頃からロンドニアの方で非常にこの、いわゆる現地人の人が助かっておると、御本部に報告の模様を
手紙で云うて来ましたがね、だから、その日本語で金光様という、わけの分からんけれども、ただ親先生と言う言葉だけは、覚えておるとこう云うんですよね。
だから親先生が金光大神に通じ、金光大神が天地金乃神ともう同根であり、一心でおありになるから、それでやっぱおかげを受けるんじゃないでしょうかね。真あだそれは、それは、狼が住むようなへき地でもあります。
それでもなら、金光大神、いわゆる金光大神が嘘をおっしゃっていない。それはどういうところかというと、自分が現世におありになるときから、ね、天地金乃神と同根だなと、合楽で云われる天地人一如の世界に住んでおる自分という者を確信しなければ云える事じゃない。そういう確信も持たずに、例えば言い残しておったとかいったようなのは、これはいうならば、ナンセンスだとこう思います。ね。
私共が頂いておる神様はね、どこから、どこにおってもいうならば、金光大神のお取次の働きを受けることが出来るんだとね、そこんところが本当に私共が分からせて頂いて、初めて、世界万国津々浦々のどういうへき地から願っても、おかげになると思うから、それが分かっておるから、その万国津々浦々への、布教のことも願えると。
ただそういう実感、そういう確信もなくて、なら、日々世界万国津々浦々仁尾道の信心と願っても、それは本当の祈り、いわゆる信じて願うという事にならないから、おかげにならないと思います。
皆さんの場合も同じ事、どうでも一つおかげ頂いて、ね、本当にいうならば、天地人一如の世界。これは教祖金光大神の専売特許じゃない。この方が祈るところ、天地金乃神と一心なり。この方が祈るところね、天地金乃神と一心なりと云えれるような信心に、段々進んでいかなければならない。それには、いよいよ天地日月のこころがね、が、分かり天地人一如の世界というのは、本当に天地日月の心が分かってそれを実験し、実証して確かめて初めて自分が天地人一如の世界に住んでいるんだなあということが分かるという風に思いますね。
私はそういう一つの天地人一如の世界をま、時々これはもう実感させて頂くということは私が思っておること、私が感じておること、それがあの神様が感じておられることだなあといったような体験をさせて頂くことです。
私が思っておることが神様も思っておんなさるなあとそういう時に、私はいよいよこれお綿密にもっともっと深く広く頂いていく、というような事が天地人一如の世界に住む事だなあというように、思うんですけれども皆さんでもそういう体験がおありになるだろうと、こうね。例えばああ、あの人の事を一生懸命重いよったらひょっこりその人がやってきた、といったような事がありましょうがね、
ですからそういうことはも、すべての上にそういう、いうならば神様、天地とのこの直結というものがね、あのいろんな場合でも、それが感じられる、私の思いと神様の思いがバラバラというのが普通一般の人達の事でしょうけれども、臣落ちの信心させて頂いておるとね、その神様と一体になるとは、こういうことだろうかというような一つの一体感ですね。
それがいうならば、天地人一如の世界を目指して頂く者の日々の体験の中に、それが感じれれるね。初めて天地金乃神と同根、いわゆる教祖のところではそれがもう、すっきりと言い切っておられるというのがま、今日あたりの御理解だと思うんです。
この方は形がのうなったらね、来てくれというところにいってやる、もう天地金乃神と同根であるというね、実感が又は、その自覚、自覚というでしょうかね、
がなからなければ云える事ではないと思いますね。
ただなら、自分がこの事で苦労したから、この事では私が死んだ後には、私に頼むなら苦労させんといったようなものとは違うのですね。でないとどこそこにあるようなね、その自分の死後には皆を守ってやるとかいっといて、云うてなくなったという、まあ仏様やら神様があるわけですけれども、そういうものとは、いうならば根本的に違うんだとね、もう生前いわゆる、この世にある間にね、自分の心の中に天地と同根である。
天地との交流といっても自分が感じておる、おれて初めていえれる断言だと、思います。
私も神様が思いござる事と、私が思いよることは同じなだなあと、いうような事が時々あります。これは日々の体験の上に、それを感じます。だからそれをいよいよま、綿密なものにしていくところに、今後のま、これは私だけじゃありません。皆さんの精進の焦点もね、そういう高度なところの体験を一つ実感できれるおかげをお互いに、一つ頂きたいと思いますね。 どうぞ